可能性を感じる地元出水で、見て食べて感動できるものを作り続ける。

可能性を感じる地元出水で、見て食べて感動できるものを作り続ける。

1931年創業の「喜久屋菓子舗」の3代目の川内さん。東京でお菓子作りの経験を経て、2020年に出水へUターン。「KIKUYA SWEETS.」のオーナーシェフ・パティシエとして出水で再スタート。東京での修行経験や出水に帰ってきて今思うことなど、川内 一人(かわうち かずと)さんにお話を伺いました。


川内さんがつくるストロベリーショートケーキと気まぐれ生シュー。

はじめに、川内さんとお菓子のつながりについて教えてください

もともと実家が広瀬で、小さい頃から家がお菓子屋さんでした。昔からお菓子やケーキが自分にとっては特別じゃなかったんですよね。

昭和30年頃の喜久屋菓子舗。
写真中央に座っている方が初代のおじいさま。

一度は出水を離れて、帰ってきてお店を継いだんですよね。出水を離れようと思ったのはなぜですか?

そもそも九州から出たかったんですよ。当時自分のまわりで東京に出ていく人は少なくて。でも日本の中心は東京だし、情報も人も集まるし刺激もあるだろうと思って、僕は東京に出ました。

なるほど。お菓子作りってまさに職人さん!というイメージですが、お仕事はどうでしたか?

当時は上下関係も厳しかったし、働く時間も長かったです。表向きはきらきら華やかだけど、裏側は地道な作業の繰り返しでしたね。結構重労働なんですよ。

大変なお仕事ですよね…。そんななかでなぜ川内さんは続けることができたのでしょう?

当時自分が働いていた店に途中から入ってきた先輩との出会いが大きかったです。その人から教えてもらったのは「なんでも前向きに考えた方がいいよ」ということ。なんでもプラスに考える。きついなって思っててもきついだけ。辛いことをどう楽しむか、ここをどう乗り越えていくかを考えるようになりました。階段は一段ずつ登っていかないと、大きな壁が出てきたときにいきなりは超えられないから。
”自分の成長を楽しむ”そう考えるようになってからは、きつくてもその先が絶対にあると思いながらやってこれました。そこからもう25年くらいお菓子づくりの仕事に関わってますね。

先輩との出会いが大きかったんですね。

そうですね。26歳のときは、お菓子作りの技術を競うコンクールに打ち込んでました。なんかもう面白くて馬鹿みたいになってましたね(笑)仕事が終わっても深夜まで練習して、バタークリームのデコレーションケーキ部門で賞をもらって。そこで自信がつきました。

面白くて馬鹿みたいに打ち込む、というのが印象的です。

もともと自信もなかったし、将来も不安だったし、働き始めて最初の5年くらいは、”ケーキが作りたい!食べることが好き!”という理由ではなく、家がお菓子屋、そこで育ってきて、仕事するなら会社勤めは嫌だし、手に職つけて自分でやったことがいい結果でも悪い結果でもダイレクトにやりがいを感じられることをやりたいというか。とにかく自分でなんかやったほうがいいなというのはありましたね。

なるほどなるほど。

先輩との出会いがなければこの世界にはもういなかったかもしれないですね。そこから自分でいろんなことを知りたいと思えるようになれたから。コンクールで自信がついて、そこからの1年が今までの遅れを取り戻すような感じでお菓子の技術だったり、いろんな情報を取り入れていきました。やっぱり知りたいって思わないと吸収できないですから。

先輩との出会いが本当に大きかったんですね。
その後の川内さんのキャリアについてもお聞きしたいです!

当時、もっと自分自身もスキルアップしたい、そのために環境を変えてみようかと考えて、いろんなお店を見ていました。ある日先輩が、売れてる店のケーキを10種類くらい買ってきてくれて。どれも美味しいなあと思いながら、そのなかでも衝撃を受けたのが『フロマージュクリュ』だったんです。
口にいれた瞬間になくなる。だけど味はしっかりと残っていて、今までに食べたことがないインパクトがあったんですよ。他のケーキも美味かったし、なんだろうこのお店って。それで行ってみたんです。活気のあるお店で雰囲気もよく、ここで働きたい…!そう思える店に出会いました。

川内さんがつくるフロマージュクリュ。

運命的な出会いですね…!

当時勤めていた店の社長に相談すると「俺から連絡してやるから」と。社長も一緒にロートンヌの面接に行きました。
シェフの人柄も、この人と一緒にやりたいと思えるひとですごく惹かれて。そこからロートンヌでの仕事が始まりましたね。

社長も一緒に、なんですね。川内さんと社長の関係性の深さも感じます。ここからロートンヌでのお話ですね。

はい。ロートンヌに入って、僕としてはお菓子作りをまた一からはじめる気持ちだったけど、店としては体制が大きく変わるタイミングで初のスーシェフに抜擢されました。
今までの経験はあるけど今までとは全然違う。お菓子作りだけではなく、人を育てることもしなくちゃいけないのは大変でした。でもその立場だからこそぐっと成長できたとも思っています。当時28歳でしたね。

28歳、まだまだお若いときですよね。シェフとの仕事はどうでしたか

業界でもトップシェフだから、感覚も新しいんですよ。自分はシェフの2番目の立場だったから、シェフの理想をカタチにしていくのが役割。そんなこと言われても無理だよ、ということも多かったです(笑)でもそれを求めてくるってことは期待してるってことだし、できないことは求めてこないだろうし。本当に尊敬できるシェフだったから、なんとか結果につなげていきたいという気持ちが強かったです。
もちろんクリアしたらまた次があって今度は違った視点での考え方を提示してくる。常に刺激があったのでやりがいがありました。

川内さんがロートンヌでの体験をいきいきと話す姿からいろんなものが伝わってきます…!シェフとの関係性やつながりの深さも気になります。

シェフとの関係は、ほんとに言葉では言い表せない…信頼関係というか。仕事とは違う時間もシェフと過ごすことが多かったですし、ロートンヌには16年いましたね。

写真中央がロートンヌ オーナー シェフ。左にいるのが川内さん。

長い年月をともに過ごしてきたんですよね。
16年勤めたロートンヌとの別れを決めたきっかけはなんですか?

僕自身が身体を壊してしまいました。
今まで突っ走ってやってきたので、まだまだロートンヌでやっていきたいという気持ちが強かったですが、入院をきっかけに今後の自分について真剣に考えようと思いました。
もともと地元には帰るつもりで東京に行ったんですけどね、10年くらい地元に戻ってなくて。

それで地元に帰ることも考え始めたんですね。
出水に戻り、お店を始めてみて今どんなことを感じていますか?

正直にいうと、いろいろともったいないなぁ。もっとまちに活気を出して楽しいまちにしていきたい、という人はたくさんいるのに、それがうまく形になっていないというのは感じますね。
だからこそ、自分が東京でやってきたお菓子作りの経験で出水に貢献できたらいいなと思っています。

ロートンヌのシェフとの別れは寂しくなかったですか?

シェフにとって僕は居て当たり前の存在だったでしょうから、シェフとしては嫌だったでしょうね。
だけどシェフには思っていることも全部伝えて、引き留める理由がないし、応援してあげることしかできないよと言ってもらえました。

応援してあげることしかできない、じーんときますね…。
出水ではどんなお菓子を作るか、どんなお店にするか、などイメージはありましたか?

東京の有名パティスリーのケーキが味わえる、そんなお店が地元出水にあったらどうですか?

それは嬉しいですね…!

ですよね。だから僕は東京でやってきたことをまずはそのままお店に反映させようと思いました。

なるほど…!
最後に出水というまちについて、Uターンしてきた川内さんの目線で感じていることをもう少しだけお聞きしたいです。

出水=ツルというイメージが出水のなかではありますが、実際地元の人たちでツルに興味のある人は少ないと思いますし、県外に出てツルの話をしても「ふぅ~ん、そうなんだ」くらいの反応しかないんですよ。
だからこそツルだけではなく、出水に行くと何かありそう!たのしそう!わくわくするよね!って、そんなまちづくりができれば、もっといろんな人が来て楽しんでくれるんじゃないかと思います。
出水にはツルをはじめとする野鳥もいっぱいいるんだよ!といったことも知ってもらえると嬉しいなと思います。

楽しそう、わくわく、強く共感します!その空気感をつくっていけたらいいですよね。野鳥のお話も、意外と川内さんは鳥好きなのかな?と(笑)新たな一面も知れてとても楽しい時間でした。

KIKUYA SWEETS.さんのお菓子は美味しいのはもちろんですが、人に贈りたい・紹介したいと思えるお店のひとつです。出水にわざわざ来てもらう理由になると思います。
川内さん、本日はインタビューありがとうございました!

ありがとうございました!

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